写真の意識の発生                                                                      01.07.28 セイノユリコ                


■ 初めに
写真が芸術であるかないかは、長い間にわたって論議されてきた。今日において写真が
芸術であるという立場を獲得するまでは、どのような経緯があったのか、またそこに働いた意識を知ることは、これから写真をやっていく上で有効であろう。今回は美術史的な見地から写真が芸術としての独立した立場を確立していく過程をみていきたいと思う。

■ ピクトリアリズム
写真が発明されたのは19世紀半ばのことであった。しかし、19世紀の写真と20世紀 の写真は確実に違う次元のものであった。写真がその本領を発揮したのは20世紀に入ってからなのであり、19世紀とは人類が写真術を体得するために必要な時間だったと言えよう。それでは、20世紀以前の写真とはなんだったのだろうか。写真芸術の最初の手本は、いうまでもなく絵画であった。写真は画家の下絵用の資料としてスタートしており、そこから派生した写真芸術も当然絵画と同じ基盤に立つことを目標とした。このため、絵画を模範とした絵画趣味写真ピクトリアリズムが隆盛を極めたのである。ピクトリアリズムとは、絵画のように美しいピグメント印画(絵の具を用いた印画法)の作成や、極端なネガの修整、軟焦点の撮影などを行い、写真本来の機能と逆行して不必要なものを画面から削ったり、ぼかした写真を至上とすることである。
 この時代における写真の芸術性についての論議の中心は、写真のリアリティーであった。
それは、今日におけるリアリティーとは異なり、写真が芸術であるには、あまりにも現実に忠実であるということが問題とされた。写真は絵画に比べて、決定的に対象の取捨選択という芸術に命を与える能力が劣っているとされ、忠実すぎる写真の特性を捨てて、当時の絵画のような風俗や、センチメンタルな風景といったモチーフを、写真を合成したり、修整したりしてつくる方が、現実のものをそのままに表現した写真よりも、芸術的であるとされていた。このピクトリアリズムにおいて写真とは、絵画の付属的な表現手段でしかなく、依然として絵画の優位性は保たれたままであり、写真家本人たちもその絵画の優位性に追従して写真表現を行っていたのである。

■ ストレート・フォト
このようなピクトリアリズムに対抗して出てきたのがストレートフォトグラフィーで あった。ストレートフォトとは、19世紀的な写真観から訣別し、写真が新しい芸術様式であるといった信念をもって絵画との間に一線を引き、写真の特性のひとつである客観性の上に自己の内部の象徴的な光景を重ね合わせようとするものだった。そのため、当時パリやロンドンを中心としたピクトリアリズムの写真家たちのように写真を絵画的に使用することを否定し、写真独自のメカニズムを認識し、ありのままを撮るという写真本来の表現を行っていったのである。そして、その第一人者がアルフレッド・スティーグリッツであった。

■ アルフレッド・スティーグリッツ
アメリカ近代写真の父と呼ばれる彼は、写真に象徴性という大きな価値を求め、かつ
それを理論づけ、自作で証明して見せた最初の人である。ストレート・フォトの芸術性を世に認めさせようと精力的に活動し、「写真分離派」(フォト・セセッション)というグループを作った。その機関紙である「カメラワーク」や彼の所有する<291>ギャラリーで、写真だけでなく印象派や、マチス、ピカソといったヨーロッパ現代絵画を広く紹介する。その意図としては、肖像画を初めとして、かつて絵画はいまの写真の役割を果たしていた。そこから一歩進んで絵画はこのように純粋な象徴性を獲得しつつあるのに、かつての写真的な絵を模倣して写真をとるのは時代遅れもはなはだしい、ということであったのである。そして、彼は雪や雨の中といった本来写真では撮れないとされていた対象を、自己の心象風景として写真にしていった。
 スティーグリッツの写真特有のリアリティーを掴み取る能力を最大限に生かした写真作品の製作、つまり、ドキュメンタリー写真にその芸術価値を見出そうとした運動によって、 いまではあたりまえの、写真ならではの表現ができてこそ優れた写真という考えがようやく確立されたのであった。

■ 人の目・機械の目
こうしたストレート・フォトによって、人々の写真に対する認識が変わってくると、こ のことは「人の目・機械の目」という言葉であらわされることがあった。
 ヴァルター・ベンヤミンは「写真小史」の中でこう記している。
「カメラに語りかける自然は、目に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ人間の意識に浸透された空間の代わりに、無意識に浸透された空間が現出するところにある。人は誰しも、たとえば人々の歩き方を大まかにであれば陳述できるだろうが、足を踏み出す瞬間、一秒の何分の一かにおける人々の身のこなしについてとなると、確かにもう何も知らない。こういう視覚的無意識は、ちょうど、情動的無意識が精神分析を通じて知られるように、写真を通じてようやく知られるのである。」
 目に映るものと写真に写るものは違う。同じ空間を撮影したとしても、写真家によってまったくその写真に写っているものは異なり、それは、その写真家がその空間とどのように対峙し、経験し、受容したかという空間に対するアプローチとプロセスの表れなのではないだろうか。

■ 自己の再認識
写真というものは、本人が自覚している以上に社会や時代の影響を受けているもので ある。写真を歴史的に見ると、そこにはその写真が生まれた時代の背景や、その写真家を取り巻く環境が、その写真の誕生の必然性を物語っている。こういった美術史的な見方から、自分の写真に対する態度や、写真に対しての新しいアプローチ方法を模索し、表現の手段を新古にとらわれて全否定することなくスタイルのひとつとして受け入れ、再認識していくことは、我々が現代において写真をやっていく上で有効といえるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送